日本陸海軍戦史研究室

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高松宮日記と戦史 その3 功四級金鵄勲章叙勲の顛末

 殿下は理由は定かではないが、かねてから自身の功四級金鵄の叙勲について強く拒絶をしていたようだ。昭和17年3月21日の日記には、

 

 今朝ノ新聞ニ私ガ功四級ヲイタダイタ記事アリ、昨日モ人事局長ニ昨日ハ陸軍ノ皇族ノ叙勲ガ出テヰタノデ、私ニツイテハ従来ノ考ヘト同ジデ今度ノ軍令部一課ニヰルコトニツイテモ金鵄勲章ニ擬賞セヌ様ニ意見ヲ述ベタノニ、今度ノ功四ニツイテハ何ニモ云ハヌノデ安心シテヰタ処ダツタ。不親切ト云フカ無責任ト云フカアキレテシマフ。早速賞勲局総裁ニソノ説明ヲ求メタ。(高松宮日記第四巻P187)

 

とあり、従来から自身の金鵄叙勲について否定的であったようだ。なおこの時の功四級金鵄叙勲は「宣仁親王略御年譜3」によれば、昭和15年4月29日付のものであり同時に支那事変従軍記章も拝受している。

 

 日記の記述から、殿下は前日に陸軍皇族の金鵄叙勲が新聞記事に出ていたことで、おそらく念押しとして中原義正海軍省人事局長に対し自身の金鵄勲章叙勲については従来の考えと同じであり、現在の軍令部第一課に所属していることについても、自身の叙勲はふさわしくないと意見を述べていた。この時に殿下は同人事局長から今度の金鵄勲章叙勲については何も伝えられなかったので、今度の叙勲について自身はないであろうと安心していたところ、この日の朝刊で自身の叙勲を知り人事局長の対応が「不親切ト云フカ無責任ト云フカアキレテシマフ」と相当お怒りになられたようである。

 

 なぜ人事局長が今回の金鵄叙勲について殿下にお伝えしなかったについては判然としない。おそらく人事局長は殿下の金鵄叙勲は既定のことで事前に知ってはいたが、殿下の従前からの態度から拒絶されるであろうことが予想されるため、あえてお伝えしなかったのではないかと考えられる。

 殿下は早速瀬古保次賞勲局総裁に対し、自身の金鵄勲章叙勲の説明を求め、3月23日に瀬古賞勲局総裁を呼び出し、自身の金鵄叙勲についての説明を聞いている。殿下は説明を聞きもう手遅れだと思ったのであろう、翌24日に叙勲のお礼を広幡忠隆皇后宮大夫に申し伝えている。

 

 3月26日、永野修身軍令部総長より金鵄勲章を受け取るが、この日の日記には「(佩用セザルツモリモ、スナホニ受取ル)」と書き留めており、内心では渋々受け取ったのであろうと思われる。

 

 ちなみに「金鵄勲章叙賜規程」によると「賞格」の標準規程が以下のように定められていた。

 

 陸海軍将校

 第十六條 籌策宜シキニ協ヒ以テ作戦計画ニ非常ノ補益ヲ與ヘ又ハ出師準備ノ計画能ク其当ヲ得為メニ作戦軍ヲシテ顧慮ナカラシメ遂ニ我軍ノ全捷ヲ期スルニ至ラシメタル者

 第十七條 枢要ノ機務ニ参シ計画宜キニ適シ励精能ク作戦ノ目的ヲ達セシメ其功卓越ナル者

 

 この標準規程をもとに賞勲局総裁から説明があったものと考えられる。

 

 結局殿下は「規定」と「既成事実」で叙勲を押し切られた形となったのではないかと思われる。

 

 殿下はつくづくこの金鵄叙勲について不快感を持たれていたようで、3月28日の日記で秩父宮妃が皇后へ勲章をお見せになられるために持参するということで「私モモツテユカネバナラヌラシイ、イヤニナツテシマフ」と書いている(高松宮日記第四巻 P198)。とはいえ、とりあえずこの件についてはこれで「一段落」として、以後は「『佩用セシム』ダカラ佩用シナクテモヨイト理屈ヲツケテ出来ルダケツケヌツモリ」と屁理屈をつけている。

 

 そしてまだ不満が解消しないのか、3月30日にも人事局長から叙勲の経緯について説明されている。その印象として「アレデ疑ヒナク適当ト信ズルト云フノダカラ話ニナラナカツタ」(高松宮日記第四巻 P200)と書きこんでいる。

 

 

 ここでちょっと見逃すことができないのが、皇后様から叙勲のお祝いをされたお礼を電話で済ませている点であろう。どこか昭和天皇に対して距離を持とうとされていたのであろうか。