日本陸海軍戦史研究室

現在、高松宮日記の読み込みをしております。

日本陸軍史上最も無謀な戦い インパール作戦 失敗の構図

 インパール作戦に関する通史的な本。読み始めた時、輜重兵連隊の方の回想が出てきたのでそういう流れになるのかな、と思っていたら途中からはちょっとだけほぼインパール作戦の概説、戦闘経過についてがメインとなる。最後にようやく、輜重兵連隊の方の回想が記述されていたが、最初の印象とは違った内容で拍子抜けした。
 著者のあとがきも、ありきたりなものだった。作戦立案、戦闘経過の所々で「お!?」と思う内容があったのに、最後の総括がありきたりで、その内容に著者自身が気づいていないのか?ととても不思議に思った。
 内容自体は手堅くまとめられていて、インパール作戦の概説としてはいいかもしれないが、何か目新しいものがあるわけでもない(とはいえ、ちょっと気になる点があったので、それは私の研究課題とさせていただくことにする)。

 

 

角川新書 山梨勝之進 「歴史と名将 海上自衛隊幹部学校講話集」

 去年の8月、書店で見かけて衝動買いした数冊の中の1冊。ようやく今年の年始休みに読む時間が取れた。

 山梨勝之進といえば、昭和海軍においては「条約派」として海軍軍縮条約締結に寄与したが、その事が影響してか、以降は鎮守府司令長官、待命、予備役となった。昭和海軍にとっては有為の人材を失うことになったが、その後は学習院長となり戦後も健在であった。
 山梨は戦後も健在であり、昭和海軍をよく知る重要人物の1人ではあったが、自身の事についてはほとんど話さない、文字通りの「サイレントネービー」を実行した。惜しいことではあるが、それが山梨の信念であるのであれば、致し方ないであろう。

 本書は、山梨が海上自衛隊幹部学校での講話をまとめた「山梨勝之進講話集」をさらに整理しまとめた「歴史と名将」の復刻本である。講話であるから、文章はちょっと読みづらいものとなっている。また同書で取り上げられている話題についても、ある程度の知識がないとわからない部分がある。復刻にあたってそのあたりも捕捉説明があればよかったのでは、と残念な部分である。

 山梨は「サイレントネービー」を戦後も通したとはいえ、講話では自身も関与し経験した点について触れている。内容的には特に目新しいものはないが、将来幹部になる自衛官に対して教育上の示唆を与えるためにあえて触れたのであろう。

 本書は分量的にも多く、さらに講話を文字起こししたもので読みづらい点があるし、講話で取り上げられた話題についての知識もある程度必要となる点もあるが、山梨が伝えたかったであろう「海軍の教訓」が感じられた。

 

ビジネス社 太平洋戦争裏面史 日米諜報戦 平塚柾緒著

 太平洋開戦直前から終戦までの、日米諜報戦についての本。戦後に発刊された暗号解読や諜報に関する書籍をベースにして書かれている。特に目新しいものはないが、これから日米、特に米側の暗号解読や諜報活動について調べようとされる方には、参考にすべき書籍の目星がある程度つくので有益。ただ、参考文献のタイトル等は巻末にはなく本文中にあるので、後から追っていくのは少し大変になるかもしれない。また海軍の話題が多く陸軍の話題はほとんどない点も注意が必要。
 
 この本、1980年代~90年代の本だったらまだ内容が仕方ないと思うが、発刊されたのが2016年ということで、あまりの内容の古さにちょっと驚いた。読みやすさとこれからこの分野を調べようという方には参考文献探しにいいかもしれないが・・・

戦史研究室日誌 2023年12月5日 海軍と陸軍が交わした電文内容にみる文章表現の違い~高松宮日記より~

 本日は、海軍と陸軍の交わした電文の一例を取り上げて、それぞれの文章表現の違いを比較してみようと思います。

 

 高松宮日記昭和17年4月9日の記述に、南方作戦が一段落をし海軍の第二艦隊がその任を離れ南西方面艦隊に引き継ぐことになり、ともに南方作戦に従事した陸軍の南方軍に対し、離任の挨拶と協同作戦の御礼の電報を発し、対する陸軍南方軍もそれに返電した電文が記述されている。この2つの電文を見ると、海軍と陸軍の違いの一端が垣間見ることができる。

 

〇第二艦隊長官(八ー一三五〇)宛南方軍総司令官

 四月十日附、海軍南方作戦部隊ノ指揮ヲ南西方面艦隊司令長官ニ引継グコトトナ 

 レリ。作戦開始以来貴軍ノ熱誠ナル御協力ニ依リ陸海軍緊密ナル連繋ノ下、克ク

 南方作戦ノ円滑ナル進展ヲ見タルヲ慶賀スルト共ニ更メテ深甚ナル謝意ヲ表ス。

 南方作戦海域ヲ去ルニ臨ミ、閣下始メ各位ノ御清武ヲ祈ル。

 

 第二艦隊長官は海軍中将近藤信竹で、南方軍総司令官は陸軍大将寺内寿一、海軍中将南西方面艦隊司令長官は高橋伊望である。この近藤第二艦隊長官からの電文に対し、寺内南方軍総司令官は以下のものを返電している。

南方軍総司令官(七ー二一三〇)宛第二艦隊長官

 客年晩秋開戦準備着手以来貴艦隊トハ水魚一体トナリ深謀?ヲ密ニ全力ヲ搏テ協同

 交戦ニ従ヒ、御稜威ノ下三閲月ニシテ予定ノ南方要域主要協同作戦ヲ策セルハ衷心

 感謝ト感激トニ堪ヘザル所ナリ。今次貴方ノ編成替ヘニ伴ヒ貴艦隊トハ暫ク直接提

 携ノ袂ヲ分ツト雖モ南方軍ハ南方々面充当艦隊ト今日迄ノ美事ナル協同精神ヲ愈々

 拡充シ陸海協心勠力以テ終局ノ作戦目的完遂ニ邁進センコトヲキシ、茲ニ貴艦隊ニ

 対シ深厚ナル謝意ヲ表スルト共ニ更ニ大洋ヲ徹底制把シ遂ニ敵ヲシテ屈伏ニ至ラシ

 メンコトヲ切願シテ止マズ。

 

 これを見ると、海軍は短く端的に文章を作成しているのに対し、陸軍は文章に美辞麗句を用いて、いささかくどいように感じる。こういったところにも、海軍と陸軍の違いが分かって、面白いと思う。

  

戦史研究室日誌 2023年12月3日 

 なかなかブログの記事更新頻度が少ないのでどうしたものか、と思っている。ネット検索でブログを継続するにはというのを検索すると、確かにごもっとも、というもので、耳が痛い・・・ストレスにならない程度に、肩の力を抜いて書いていくことにしよう。

 

 現在、高松宮日記を「OneNote」というアプリを使用して、1日ずつ整理しながら打ち込んでいます。普通に読めばいいのでしょうが、それではなかなか頭に入らないので、地道に打ち込んでいます。これ、昔からやっている方法。戦史叢書や戦史書籍、手持ちの一次資料、先行研究等など、ジャストシステム社の「一太郎」に相当な分量を打ち込みました。ただ「一太郎」は文章作成ソフトで、こういった資料の打ち込み作業については使い勝手があまりよくなかったようです。「OneNote」を使うようになってからは、後から見返す際に非常に分かりやすくなりました。クラウド保存しているので、出先でも簡単に閲覧できたり、隙間時間で打ち込んだり(高松宮日記自体をスキャンしてPDF化している)しています。

 非常に手間な作業なのですが、付箋を貼ったりするより自分には有効かな、と。特に平日は仕事をしているので、本を持ち歩けないですし。

 

 今後はあらためて「OneNote」に整理しなおしていこうと考えております。気が遠くなりますが・・・

 

 本日は先々月に入手した「昭和七年三月施行 足利及佐野附近 旅団幹部演習旅行記事 近衛歩兵第一旅団司令部」をスキャンしてデジタル化しました。ガリ版で100枚を越える分量だったため、ほぼ1日作業にかかりました。内容の読み込みは後日ということで(今は高松宮日記に集中)。

昭和七年三月施行 足利及佐野附近 旅団幹部演習旅行記事 表紙画像

 

中公新書 関東軍 及川琢英著

 戦前の日本による中国大陸統治の象徴ともいえる組織機関「関東軍」に関する概説書。関東軍というと「謀略」や軍事組織として見られることが多く解説等もその流れのものが多いが、この本は中国(満洲)や日本の政局とも絡められており、単純に軍事組織のものを期待して読むと困惑すると思う。
 著者は満洲国軍について研究をしている。満洲の歴史とくに張作霖等の有力者が群雄割拠していた事に関する分野に詳しいため、その方面については詳しく書かれている。対して支那事変以降の関東軍については割かれている分量も少ない。もう少し満ソ国境紛争について書かれていたと思った点がちょっと残念。
 とはいえ、関東軍創設期について知りたいと思う方には、最初の入り口としてもいい良書である。より詳しく知りたいと思ったら、巻末の参考文献を利用して他書を当たればいいと思う(私もこれを活用したいと思った)。

高松宮日記と戦史 その3 功四級金鵄勲章叙勲の顛末

 殿下は理由は定かではないが、かねてから自身の功四級金鵄の叙勲について強く拒絶をしていたようだ。昭和17年3月21日の日記には、

 

 今朝ノ新聞ニ私ガ功四級ヲイタダイタ記事アリ、昨日モ人事局長ニ昨日ハ陸軍ノ皇族ノ叙勲ガ出テヰタノデ、私ニツイテハ従来ノ考ヘト同ジデ今度ノ軍令部一課ニヰルコトニツイテモ金鵄勲章ニ擬賞セヌ様ニ意見ヲ述ベタノニ、今度ノ功四ニツイテハ何ニモ云ハヌノデ安心シテヰタ処ダツタ。不親切ト云フカ無責任ト云フカアキレテシマフ。早速賞勲局総裁ニソノ説明ヲ求メタ。(高松宮日記第四巻P187)

 

とあり、従来から自身の金鵄叙勲について否定的であったようだ。なおこの時の功四級金鵄叙勲は「宣仁親王略御年譜3」によれば、昭和15年4月29日付のものであり同時に支那事変従軍記章も拝受している。

 

 日記の記述から、殿下は前日に陸軍皇族の金鵄叙勲が新聞記事に出ていたことで、おそらく念押しとして中原義正海軍省人事局長に対し自身の金鵄勲章叙勲については従来の考えと同じであり、現在の軍令部第一課に所属していることについても、自身の叙勲はふさわしくないと意見を述べていた。この時に殿下は同人事局長から今度の金鵄勲章叙勲については何も伝えられなかったので、今度の叙勲について自身はないであろうと安心していたところ、この日の朝刊で自身の叙勲を知り人事局長の対応が「不親切ト云フカ無責任ト云フカアキレテシマフ」と相当お怒りになられたようである。

 

 なぜ人事局長が今回の金鵄叙勲について殿下にお伝えしなかったについては判然としない。おそらく人事局長は殿下の金鵄叙勲は既定のことで事前に知ってはいたが、殿下の従前からの態度から拒絶されるであろうことが予想されるため、あえてお伝えしなかったのではないかと考えられる。

 殿下は早速瀬古保次賞勲局総裁に対し、自身の金鵄勲章叙勲の説明を求め、3月23日に瀬古賞勲局総裁を呼び出し、自身の金鵄叙勲についての説明を聞いている。殿下は説明を聞きもう手遅れだと思ったのであろう、翌24日に叙勲のお礼を広幡忠隆皇后宮大夫に申し伝えている。

 

 3月26日、永野修身軍令部総長より金鵄勲章を受け取るが、この日の日記には「(佩用セザルツモリモ、スナホニ受取ル)」と書き留めており、内心では渋々受け取ったのであろうと思われる。

 

 ちなみに「金鵄勲章叙賜規程」によると「賞格」の標準規程が以下のように定められていた。

 

 陸海軍将校

 第十六條 籌策宜シキニ協ヒ以テ作戦計画ニ非常ノ補益ヲ與ヘ又ハ出師準備ノ計画能ク其当ヲ得為メニ作戦軍ヲシテ顧慮ナカラシメ遂ニ我軍ノ全捷ヲ期スルニ至ラシメタル者

 第十七條 枢要ノ機務ニ参シ計画宜キニ適シ励精能ク作戦ノ目的ヲ達セシメ其功卓越ナル者

 

 この標準規程をもとに賞勲局総裁から説明があったものと考えられる。

 

 結局殿下は「規定」と「既成事実」で叙勲を押し切られた形となったのではないかと思われる。

 

 殿下はつくづくこの金鵄叙勲について不快感を持たれていたようで、3月28日の日記で秩父宮妃が皇后へ勲章をお見せになられるために持参するということで「私モモツテユカネバナラヌラシイ、イヤニナツテシマフ」と書いている(高松宮日記第四巻 P198)。とはいえ、とりあえずこの件についてはこれで「一段落」として、以後は「『佩用セシム』ダカラ佩用シナクテモヨイト理屈ヲツケテ出来ルダケツケヌツモリ」と屁理屈をつけている。

 

 そしてまだ不満が解消しないのか、3月30日にも人事局長から叙勲の経緯について説明されている。その印象として「アレデ疑ヒナク適当ト信ズルト云フノダカラ話ニナラナカツタ」(高松宮日記第四巻 P200)と書きこんでいる。

 

 

 ここでちょっと見逃すことができないのが、皇后様から叙勲のお祝いをされたお礼を電話で済ませている点であろう。どこか昭和天皇に対して距離を持とうとされていたのであろうか。